エミール・ガレ [Emile Galle]

エミール・ガレ 略歴・プロフィール
ガラスの芸術家。
植物学者でもあったガレの描く植物はリアルで、ガラスの上で生きているかのよう。
多様な表現を持つ作品の数々に、目も心も奪われる。
アールヌーボーの巨匠 エミール・ガレ
■1846年
5月4日、フランスの北東部ロレーヌ地方、ナンシーでシャルル・マルタン・エミール・ガレは誕生しました。生家は陶器工場を営んでおり、父シャルル・ガレは新しいガラス食器などの販売を次々と手がけ事業は成功を収めていた。父は、息子のエミールに広い視野と考えを身につけるためしっかりとした教育を受けさせた。リセー(高等中学校)でのエミールは哲学、語学、文学に優れた才能を発揮し「詩」には特に深く通じていた。課外では、デッサンや風景画の授業を受け、又、当時名高いD・A・ゴドゥロン教授についてかなり専門的に植物学を学んだ。
■1862年
リセーを卒業するとドイツのヴァイマールに留学し、文学、哲学、植物学に加え鉱山学を学ぶ。更に、建築と装飾の美術について勉学を修めた。
■1864年
再びナンシーへ戻り、父の工場で製品の絵付けを手伝う。
■1866年
再びドイツマイゼンタールへ行き、ビュルグン・シュヴィーラー社のガラス工場で科学とガラス製造の技術を習う。
■1867年
パリ万博が行われた。日本の工芸品や浮世絵などの美術品が出品されヨーロッパにジャポニズムの新しい大きな波が押し寄せたのである。
■1868年
再びナンシーの父の工場で絵つけを担当するが、1870年にプロシアとフランスの戦争が始まり、エミールは義勇軍に志願した。宰相ビスマルク率いるプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスは多額の賠償金を負い、そしてエミールの故郷であるアルザス・ロレーヌ地方を割譲されてしまった。エミールは実戦を経験することはなかったがプロシアの侵略行為は彼の心にまで及んだのである。
■1871年
父についてイギリスを訪問し、現在のヴィクトリア・アンド・アルバード美術館を見学し古代ガラスの魅力にとりつかれた。この旅行の帰路の途中、パリ、イタリア、スイスを周り、美術館や植物園に訪れ見開を広めた。
■1873年
父シャルルはナンシーのラ・ガレン通りに屋敷を建築した。次の年、エミールは分散されていた家業のガラス工場をナンシーに集め、ガラス製造に意欲を燃やした。
■1875年
牧師の娘アンリエット・グリムと結婚した。この頃から積極的にガラス作品の制作を始めた。
■1884年
装飾美術中央連盟に作品を出品し好評を博す。
■1885年
日本からナンシーの森林学校に留学生がやってきた。彼は高島得三といい北海という。画号をもつ人物である。高島と交流をもつようになってエミールは、日本美術をより身近に感じることができた。自然を愛し、自然にそぐう生き方と、その中から美を見いだす。日本美術はエミールにとって遠い国の文化ではなかったのだろう。それからエミール・ガレの活躍はめざましいものがある。多くの美術展に作品を出品し数々の名誉ある賞を手に入れた。そして、ガラスという素材の研究を重ね、新色や新技術の特許を次々と取得していくのである。
■1900年
パリ万博で、大量のガラス作品を出展し、堂々たる「ソロモン王の壺」でグランプリを獲得。ガレの芸術は栄光に輝き満ちていた。しかし、病魔はエミール・ガレの肉体と精神を蝕み始めており、心は重い分裂症を患い闇の中をさまよい続けた。
■1902年
最愛の父の逝去によるガレの落胆ぶりはかなりひどく、より一層、自らの殻に閉じこもるようになった。その後、少し落ち着きを取り戻したエミール・ガレは、悟りの境地に達したような気高い作品の制作を続ける。
■1904年
9月23日、シャルル・マルタン・エミール・ガレは、白血病により、58年の生涯を終えた。使命を果たした蜻蛉のように静かに命の際に落ちていったのである。
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